そうだ、お城を見に行こう!!~鉢形城 [そうだ、お城を見に行こう!!]
10/31(木)、埼玉県寄井市散策の続き。
荒川の玉淀河原に立ち寄った後、正喜橋を渡って対岸へ。
鉢形城跡へ。
鉢形城とは・・・・・
1476年関東管領であった山内上杉氏の家臣長尾景春が築城したと伝えられ
小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在の大きさとなり
1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として
前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、
北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城。
開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が
代官となり、この地を統治した。
(寄居町公式サイトより要略)
荒川と深沢川の合流地点の断崖絶壁の上に築かれた
天然要害の平山城です。
正喜橋を渡って城跡に入ってすぐ笹曲輪。
曲輪とは近代のお城で言う所の本丸とかの「丸」の事で
堀とか土塁で区切られた区画の事です。
伝御殿曲輪。
伝御殿曲輪付近から寄井の街並み。
本曲輪の田山花袋の碑。
二の曲輪。
二の曲輪の土塁上にある城山稲荷神社。
三の曲輪にある復原四脚門、復原石積土塁、復原四阿。
城跡の西端、JR八高線踏切近くのこの辺りが大手跡、
大手付近の堀。
大手の奥の伝逸見曲輪。
馬出。
二の曲輪沿いの道を歩いて荒川と共に天然要害の
もう一つの要素となっている深沢川。
こちらは白濁とした濁流の荒川とは違い台風の影響は抜けたのか
水は澄んでいて水の流れもそこまで急流ではありませんでした。
深沢川対岸の外曲輪。
違う橋から深沢川を再度渡って
再びスタート地点の城跡入口へ。
行きはスルーした城跡の模型。
ここに限らずこの手の模型って多少傾斜をつけて設置するとか
上から見えるように台を設置とかしてくれないと
立派な物を置いてもらっても見難くて仕方がない。(^^;
城跡は近代のお城とは違い戦国時代の平山城で
立派な天守や櫓がある訳ではありませんが
土塁や堀、自然の地形がいい状態で残されていて
これはこれで近代のお城とは違った魅力がありますね。
荒川の玉淀河原に立ち寄った後、正喜橋を渡って対岸へ。
鉢形城跡へ。
鉢形城とは・・・・・
1476年関東管領であった山内上杉氏の家臣長尾景春が築城したと伝えられ
小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在の大きさとなり
1590年の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として
前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、
北条氏邦は6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城。
開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が
代官となり、この地を統治した。
(寄居町公式サイトより要略)
荒川と深沢川の合流地点の断崖絶壁の上に築かれた
天然要害の平山城です。
正喜橋を渡って城跡に入ってすぐ笹曲輪。
曲輪とは近代のお城で言う所の本丸とかの「丸」の事で
堀とか土塁で区切られた区画の事です。
伝御殿曲輪。
伝御殿曲輪付近から寄井の街並み。
本曲輪の田山花袋の碑。
二の曲輪。
二の曲輪の土塁上にある城山稲荷神社。
三の曲輪にある復原四脚門、復原石積土塁、復原四阿。
城跡の西端、JR八高線踏切近くのこの辺りが大手跡、
大手付近の堀。
大手の奥の伝逸見曲輪。
馬出。
二の曲輪沿いの道を歩いて荒川と共に天然要害の
もう一つの要素となっている深沢川。
こちらは白濁とした濁流の荒川とは違い台風の影響は抜けたのか
水は澄んでいて水の流れもそこまで急流ではありませんでした。
深沢川対岸の外曲輪。
違う橋から深沢川を再度渡って
再びスタート地点の城跡入口へ。
行きはスルーした城跡の模型。
ここに限らずこの手の模型って多少傾斜をつけて設置するとか
上から見えるように台を設置とかしてくれないと
立派な物を置いてもらっても見難くて仕方がない。(^^;
城跡は近代のお城とは違い戦国時代の平山城で
立派な天守や櫓がある訳ではありませんが
土塁や堀、自然の地形がいい状態で残されていて
これはこれで近代のお城とは違った魅力がありますね。
コメント 0
コメントの受付は締め切りました